琴線に触れる

「琴線に触れる」という慣用句があります。最近誤用が増えているらしいです。
まあそうだろうなと思います。琴線というのは楽器の琴の糸のことです、触れれば当然ですが琴の音が鳴ります。

 

現代において実物の琴線に触れたことがある人は少ないでしょう。

ですからこの言葉はもはや本来持っていた美しい比喩の効果を失っており、誰かの言葉に感動したことを小難しく表現するだけのものです。

 

私は「琴線に触れる」という表現をとても美しいものだと思っています。

この美しい比喩が持つ本来の輝きが、このまま忘れ去られるのは惜しいと思います。
ですので、私なりにこの言葉の美しさを語りたいと思います。

 

少し想像してみてください。

さて、あなたの隣に誰かがいて、どうでもいい会話をしています。
それらの会話は心を通り過ぎていくだけで、まったく響いていません。
会話はありますが、心は静かなのです。音のない部屋に一人でいるのと心は変わりません。

 

不意にある言葉があなたの琴線に触れたとします。
それは静かな部屋に一人でいるときに不意に琴の音が響いたようなものです。
あなたは不意に鳴った音に驚いてそちらを向くでしょう。
琴の音は以外と長く響きます。
残響に耳を傾け、止んだ後も無意識にその響きを思い返すでしょう。

 

静かだった心を騒めかせた不意の響きと、それを思い返して心に刻み込む時間。

 

そういった一連の心情が、「琴線に触れる」に込められた光景ではないでしょうか。

昔の人の家には(上流階級であれば)おそらく琴があったのでしょう。
静かな家の中で過ごしていると、不意に誰かが立てかけた琴に触れて音を響かせることがあったのかもしれません。

 

不意に心を騒めかせた言葉が頭に残っている心情を、不意に鳴った琴の音の残響に耳を傾ける心情に例えたこの比喩は、想起できる風景の美しさから私のお気に入りです。

 

しかしながら、現代生活において誰かが物理的に部屋に置いてある琴に触れることはありません。
改めて言いますが、この言葉はもはや本来持っていた美しい比喩の効果を失っており、
誰かの言葉に感動したことを小難しく表現するだけのものです。

 

本当の意味で伝わらない言葉に意味はありません。
どんなに美しい意味が込められていようと、伝わらなければ美しくありません。

 

「琴線に触れた」などと評論家や作家は手癖で書いてしまいます。
使い古された琴線はとうに擦り切れて心に響きません。
言葉の意味を知識として知っている人だけが辞書的に意味を理解するだけの、伝わりづらくて小難しい日本語をわざわざ使う意味はありません。

 

逆に小難しい日本語を知っているのだと周りに見せびらかす意図すら感じられ、こうなると却って醜悪にすら感じられます。

 

ですので、バズっていた、「難しい言葉を使うのやめようか」と言った方の感性は正しいように感じられました。

 

それでも、私はこの言葉が好きですから、勝手ながら少しでもこの美しい比喩の光景を共有できる人が増えてほしいと思います。